🌙summer
26話「眠りから目覚めて」
聞こえてますか?
昨日の続き…。
Mは、そんな生活を送る僕を
まだ受け入れては
いない様でした。
下馬散歩の中でも
時折 水商売の話題になると
彼女は決まってその表情に
暗い影を落とすのでした…。
その日Mは、メキシコ料理店に
休みを貰っているようでした。
ガラス張りの電話ボックス。
今では、殆ど見る事のない
公衆電話の箱の中。
緑色の受話器を置くのと
同時にテレホンカードが
返って来ました。
「ピーピーピー」と
Keyの高い電子音…。
角張った顔のような箱から
煩さく舌を出したそれを
素早く抜き取りました。
それから、Mの家に電話を
入れようとして…
やっぱり止めました。
待ち合わせをしている訳では
ないのだけれど…
心配してしまうのです。
果たして僕にその権利が
あるのでしょうか…。
歌舞伎町の仕事から
川辺の家に帰宅した僕は、
留守番機能の点滅を
いの一番に確認するのです。
時計の針は、
朝の8時を指しています。
Mからのメッセージは
ないようでした…。
眠りから目覚めて
一番に想い浮かぶ顔は、
その人にとって
一番大切なひと…。
それは、下馬散歩の
はじまりから
より強く僕の心を支配して
ゆくのでした…続く。
目覚めに感謝して
また、明日。
🌙summer 27話「夏の虫」
聞こえてますか?
夏の虫たちは、
まるで疲れを知らないように
午後の日差しが傾いても
喧しく鳴いていました。
二階にある寝室から
リビングに降りて
テレビのリモコンを探します。
それから、冷蔵庫の中の
ミネラルウォーターを取り出し
庭に面した窓を開けました。
点けっぱなしにした
テレビの音と夏を象徴とする
その鳴き声は、
ステレオタイプとなって
この川辺の家に響き渡りました。
起き抜けの僕には、騒音以外の
何ものでもありません。
眠りから目覚めて
一番に想い浮かぶ顔は
その人にとって一番大切なひと…。
庭の乾き切った土を眺めながら
ミネラルを飲み干しました。
花に水をやらなきゃと
ぼんやり思いながらも
目覚めたばかりの意識は
彼女だけの物になっています。
あれから、Mと会えない
日が続いていました。
時間が合わなかったり、
リハーサル終わりメンバーと
飲みに行っても休みだったり…。
昨日、思い切って彼女の家に
電話をしてみたけれど
案の定 留守でした。
「避けられてるのかな…」
テレビの音と虫の声は、
そんな意識の中で薄れて行き
やがてそれは
弱くなってゆくのでした…続く。
夏の声に感謝して
また、明日。
🌙summer
28話「愛するということ」
聞こえてますか?
夏の日差しは、じりじりと
地面の水分を奪い取り
庭の花たちは、Uの字を
逆さまにしたように倒れ
力なく重なり合っていました。
焦点の合わない視力で
ブラウン管の物体を
目だけで追っていました。
どうやら、夕方にやる
ドラマの再放送の様です。
俳優 緒方直人が、
雨の中でずっと
誰かを待っています。
僕は、夏の声を掻き消すように
リモコンのボリュームを
上げました。
ひとりの男が「好きだ」の
一本槍で気持ちを伝え
それに翻弄されながらも
小泉今日子扮する主人公が
心を揺り動かされてゆく
ストーリー。
それは「愛するということ」
と云うドラマでした。
そういえば、
名作「男女7人夏物語」に
ときめきを覚えたのも
放送の一年後でありました。
高校時代 夕方のアルバイト前に
時を惜しむように観ていた事が
思い出されます。
世間の潮流に一年の遅れを取る
再放送のアフリカーナ。
観ている内に
いくら飲み込みの悪い僕でも
ザワザワし始めるのです。
今の自分に似ているような…。
それからの僕は、
ウィークデイの夕方から
目が離せなくなりました。
だけれど、ドラマはドラマ…。
テレビの中の彼は、
シュッとした商社マンで
普通の髪型をした好青年。
そして現実は、
昼と夜の逆転した生活を送る
髪を洗えない
時代遅れのアフリカーナで
あるのでした…続く。
夕暮れの再放送に感謝して
また、明日。
🌙summer
29話「ニューシネマ
・パラダイス」
聞こえてますか?
約束をしている訳では
ないのだけれど…。
今日も僕は、海岸通りから
レインボーブリッジを渡り
彼女のいる三宿へと
車を走らせるのです。
濡れた路面は、
対抗車線のヘッドライトに
反射して僕の視界を遮りました。
銀色の月を隠した
突然の雨雲は、
東京湾に広がる風景を
一変させました。
点けっぱなしのラジオから
懐かしい音楽が流れています。
それは、劇場まで足を運んで
鑑賞したイタリア映画
「ニューシネマパラダイス」の
テーマ曲でした。
ヒロインに想いを寄せて
彼女の部屋の扉が開くのを
ひたすら待ち続ける
主人公トト…。
ピンとこなかった当時…。
だけれど、
今になって身に染みるのです。
物語の中に出てくる
ある男の逸話…。
雨の日にも風の日にも
愛する女性を待ち続け
最後の一日になって
何故か待つことを
止めてしまった男の話。
彼の気持ちが少しだけ
分かる気がしました…。
涙を誘うテーマ曲が
フェードアウトしてDJの
アナウンスに変わりました。
ゆりかもめ芝浦アプローチ。
僕は、ループしたその橋の
形状に身を委ねるようにして
ハンドルを廻すのです。
僕はいつまで…
待てばいいのでしょうか…続く。
優しい音楽に感謝して
また、明日。